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立川談春インタヴュー(前編):なりたいものになれなくてもいい。でも、なろうと思って一生を費やす

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立川談春インタヴュー(前編):なりたいものになれなくてもいい。でも、なろうと思って一生を費やす
ローリングストーン日本版 アーカイヴ・インタヴュー
2014年12月号 特集 立川談春
落語の奥にあるもの

師匠であるあの立川談志にも「俺より落語が上手い」と言わしめ、「平成の名人」とも呼ばれる落語家、立川談春。 談志に入門したのが1984年。2014年、談春は落語家生活30周年を迎えた。落語を知らなくても、ドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』の坂東昌彦役、『下町ロケット』殿村直弘役と言えばわかるかもしれない。 そして、その圧倒的な存在感に、この男は何者なのか、と気になった方も多いのではないか。

談春の存在は、個性的な人間が集まる落語界においても際立っている。 そもそも、 談春がいる落語立川流というのが、落語界においては異端だ。
談春の師匠である立川談志は、真打昇進試験のあり方を巡り落語協会とケンカをして脱退。 落語立川流を設立した(1983年)。立川流は、協会を脱退してしまったため、寄席に出ることができない。そのため、ホールなどの場所を借りて、独演会や一門会を開く。だが、開いたからと言って簡単にお客が集まるわけではない。集客をするには、圧倒的な落語の実力や個性といったものが必要となる。ゆえに立川流の噺家は、実力、個性ともに先鋭化してきた。
そのなかでも談春の存在は特異だ。例えば、談春は、いわゆる古典落語だけしか高座にかけない。得意とする演目は『紺屋高尾』などのいわゆる人情噺だが、『九州吹き戻し』といった落語を平気で高座にかける。この演目は笑わせる要素も、人情に訴えかけてホロリとさせる要素もなく、一席を語るのに1時間はゆうに必要とする大作で、今は談春のほかにやり手がいない噺だ。

こう書くと、談春の独演会に集まるのはいわゆる落語のご通家さんだけのように思うかもしれないが、満員の独演会には若い世代の観客も多数足を運んでいる。そして今、談春は最もチケットが取れない落語家だ。全国で開催されている独演会のチケットは、発売と同時に完売する。2010年の新宿厚生年金会館大ホールや、2014年の三十周年記念落語会『もとのその一』の最初の開催地である大阪フェスティバルホール2デイズなどの大バコの独演会も即完となった。

なるほど高座を観れば、その圧倒的な話芸に脱帽する。ただ、話芸が凄い噺家はほかにもいる。談春の落語にはそれだけではない、「何か」がある。その「何か」に観客は惹かれ、談春の高座に集う。談春の落語を追いかけているうちに、あるいは、何度かインタヴューをするうちに、その「何か」が見えてきた。

談春の落語が凄いのは、上手くやろうと鍛錬してきたからではなく、己の生き方にこだわってきたからだと思う。世間的にどんなに面倒くさく思われようとも、己の生き方、価値観、哲学を押し通してきた。しかも、その押し通して来たものがまぶしいほどまっすぐとでも言うか、僕らが生きていくなかで世間の空気の読み、捨ててきてしまったものだから厄介なのだ。

だから、そんな談春を見ていると心が揺れる。「俺もあんなふうに自分が正しいと思うことを、貫いて生きていきたい」と心が揺れる。でも、そんなことはできず、「ここまでしたら嫌われるだろうなぁ」と世間の、コミュニティの空気を読み、妥協を重ねる。

いつの頃だったか覚えていないが、人生というものを歩み出した時に心にあった「もの」は、すでに角という角が丸くなってしまった。だが、談春はその「もの」を、そのまま持っている。少なくとも僕にはそう映る。例えば、それが四角なら、四角のままだ。「まま」というより、さらに四角になっているのではないか。真四角とでもいうか、辺はどれもピンと張り、 角は少しもゆるんでいないように映る。角は90度直角、辺の長さも均等、迷いはいっさい感じられない。

談春は、そんな己を表現するために落語を選んだ。その落語は、本人そのもののように真四角だ。それはそうだ。落語は談春が世間と接する唯一の手段なのだから。談春の話芸が凄いのは、つまるところ、妥協せず生きる、真四角な己を投影したものだからなのだ。だから談春の落語は美しく、緊張感に満ちている。そして、談春の高座に集まる人々は、その落語の奥にある、真四角なものに触れ、そこに憧れ、酔う。

これはあくまでも個人的な談春論だ。しかも、「真四角」なんていう例えは、いかにも言葉が安っぽい。だが、この仮説はあながち間違ってはいないと思う。

そこで、この「談春考」を、本人をはじめ、談春を愛する3人の表現者たち(柳美里、寺岡呼人、南沢奈央)へのインタヴューを通じて検証し、談春の落語の奥にある「もの」を解き明かしたい。

思えば、談春が落語の世界に入った80年代あたりを境に、甘美なもの、丸いもの、おとぎ話的なものが豊かさの象徴になってきた。トレンディ・ドラマ、テーマパーク、サークル活動の延長のようなSNSでつながった「友達」とのやり取り、情報に付加価値を付けるだけで金儲けをしているメディアやクリエイター。

談春の落語、その奥にあるものは、そうした甘美なもの、丸いものとは真逆の様態だ。だが、それに触れるために多くの人が独演会に足を運んでいる。それは、震災後のこの国の新しい哲学を求めているようでもある。そして、その奥にあるものに触れる時、心のぜい肉みたいなものが削ぎ落とされるような気がしている。

─30年ということで、古いお話から伺わせてください。師匠は中学の頃は競艇の加藤峻二選手に憧れていて、試験まで受けたものの、身長制限で不合格となりました。そこで、その前から興味があった落語に近づいていくわけですが、当時、落語の何に魅せられていたのでしょうか?

何もわからなかったです。というのも、その頃の私は14~15歳ですからね。その歳で、落語の何が面白いんだろ? と突き詰めて考える自意識は、私の中にありませんでした。単純に落語が面白かった。それだけです。

─その単純に面白かった落語との距離が、談志師匠の落語と出会って変わった。「立川談志芸能生活30周年記念の会」で談志師匠の『芝浜』を15歳で初めて聴いて、「この人が好きだ」と、お弟子さんになった。

談志を好きだと思ったのは、尊敬です。憧れと言っていいでしょう。

─憧れと言うのは、「自分もそうなれる」という可能性を見出したから?

なりたいとは思いましたが、なれるとは思っていません。憧れるということは、なれる/なれないを考えないことだと、私は思っています。談志になりたかった。だから、弟子になったんです。競艇選手になりたかったんです。だから、試験を受けた。なれる/なれないの適正を、僕の基準で考えることは不純だと思います。なりたいものになれなくてもいい。でも、なろうと思って一生を費やす、それは尊いことだと思います。今の世の中は結果を求めるだけでなく、そこへ至る近道も求めますね。簡単に言えば、即戦力という言葉です。その求め方には私はなじめませんね。

─最初は談志師匠に褒められたくて落語をやっていた、と読んだことがあります。

談志に褒められたくて落語をやっていた。それは事実です。むしろ、談志に似たいと思ったけど似なかったのは、字だけだと思います。文章のスタイルだって、およびも寄らないけど、やはり談志の匂いがするだろうし。ましてやこの落語という伝統芸能の世界では、師匠というのはお手本ですから。お手本をなぞる、習作と言いますが、そこから始まるんです。お手本どおりに書き写せることを芸の質、「芸質が良い」と言います。そこが最初に才能と認められるところです。つまり、まず模倣です。でも、素養がなくて経験がなくて教本がない落語の世界で、どうやって似せるんだっていう話になる。耳で聴くんです、談志の落語を。だからブレスすら、舌うちすら、それが悪癖でも、真似ようとする。それを最初にやったら「お前は口調がいい、質がいい」と褒められたんですね。不思議なもので、前座のうちは似ているということを価値として認めてくれます。仲間内も観客も。『末が楽しみだね』なんて言われるその前座を、僕は4年やりました。
─談志師匠を真似るところから始まった談春師匠の落語は、いつからオリジナルなものになったのですか?

俺のオリジナルな落語ってどういうこと?

─談志師匠は「落語は人間の業の肯定だ」とおっしゃっていましたが、そのフレーズを借りるのならば、「談春落語は談春という人間の業そのものだ」と思っています。師匠は落語を通して、談春という人間そのものを僕らに見せてくれています。しかも、ご自身の心のゆらぎをもドキュメントで見せてくれています。僕にとって談春落語とはそういうものでして。

私が自分の感情をコントロールしたうえで、それを演出にまで高めていると思っているのならば、間違いです。本当に感情のまま当たり散らしているから、信じられないくらい人を傷つけることもありますし、感情のままむやみに親切な時もあって、その落差、ギャップに興味や愛情を持って「面白いね」と誤解してくれている人、錯覚してくれている人が、今とりあえず多いというだけです。もうひとつ、言っておきます。そこを演出しようと思うと、演出しきれた人はそれなりのポジションへ行き、他者からの支持を受けるでしょうが、それで失敗した時はプライドを失うだけでなく、飢え死にまで覚悟しなければいけないでしょうね。ただ、そんなことは、とんでもない数の人間が立川談春という芸人でご飯を食べ始めた時に、初めて意識することなんじゃないでしょうか。そして、孤独になるんじゃないでしょうか? もちろん、そんなふうにはなれないし、そんな責任のかけらみたいなものも拒否したいので、事務所すら持ってないです、私は。

─師匠が感情をコント ロールしているとは思っていないです。 むしろ、剥き出してぶち当たっている師匠の高座に心ゆさぶられていて。

剥き出しでぶち当たるということがいけないことだと、人間は教わりますね。みんなが勉強しましょうと言っているのに、「俺は今、クッキーが食べたい」って学校で言ったら怒られる。だから、これは許されないことなんですよ。でも、たまたま俺しか出ない独演会にお金を払って来てくれた人たちの前で、作品を通じて自分の感情のゆらぎを表現する。そこに興味を持ってくださったのはすごくありがたいし、うれしいことなんだけど、とても特異な空間で、その2時間半だけ許されることだから。むしろ、そこに興味を持つあなたの自意識が面白い。そこに興味を持つ読者が数多くいるとは思えないですけどね。

─そうでしょうか?

なぜか? みんな、普通に暮らしてるから。ただ、落語の世界の住人みたいに、もっと言えば、俺みたいに暮らしたら楽しいだろうなとは思っている。でも、そこをみんな、知性や常識できちっと抑えている。大人だから。その脇で好き勝手生きてるヤツがいて、それを面白いと思ってくれているんだろう、としか、独演会に多くのお客さんが来てくれている現象を分析できない。まぁ、俺みたいに生きたいとは、 決して思わないのかなぁ。そう生きたいと思うとしても、やっていけないのもわかってる。だから、 談春という媒介を通して、落語という世界を体験している。私たちはあんなふうには生きられないけど、って。

─おっしゃるとおり、今まで僕らは理想の生き方をする人の人生を覗き見ることで、疑似体験をして満足してきました。ただ、それでいいのかと。人任せじゃなく、自分で何かをやりたいと思っている人は多い。特に3・11以降。その時に、自分のことを全部自分で責任を負っている談春師匠が僕にはまぶしくて、それこそ「好きだ」と思ったんです。

俺はね、自分のことしかできません。他人のことなんか、何も考えていませんよ。自分のことで精いっぱいです。答えの意味がわからないでしょうね。今、あなたは自分のことを何もできていないのに、他人のことを考えていますよね。国のことを考えていますよね。本当にこの国を良くしたいのなら、まず自分のことをやってください。自分のことをやっていたら、とても他人のことはできません。自分のことで精いっぱいになります。そして、自分のことをやっていながら他人のことを考えられないというのは、自分のことすらできていない現実よりも、もっと焦燥感があって、落胆して、冷たくて、暗くて、辛いです。そこまで言うなら、まず自分のことからおやんなさい。自分のことをやればやるほど、もっと他人のことはできなくなります。

ー、、、。

俺も、人の役には立ちたいんだよ。でも、期待は裏切りたい。これが面倒くさいんだよ、自分自身で。『あんたの落語を聴いたら元気になれそうな気がするからさ、ちょっと線量が高いけど来てよ』と言われたら、俺、行きますよ。でもそこで『「芝浜」をやってくれるんだよね』って言われると、やりたくない。そうじゃなくてこういう噺でどう? ってなる。

─あの、、、本当に他人のことを考えるよりも、まずは自分のことを考えるのでいいのでしょうか?

触れちゃいけないことに触れえくるねぇ。他人のことをまったく考えないで生きていけるわけがないし、自分のことを考えずに人のために生きていけるわけもないですし。そんなに他人のことを考えているのに、なぜ行動に移せないんだろうね? そんな自分は弱いとか、ダメだとか、利己的だとかって、笑う必要はないと思う。なぜかと言うと、それは悩みたいがゆえの悩み、悩む材料にしているだけだからーと言ったら、あまりにも言葉が厳しすぎるかな。簡単です。悩んでいるなら、行動に移せばいい。そこに誰の力も必要ない。ただ行動すればいい。その代わり、行動したがために、先様の迷惑になることだってあるんだよ。その時、どうする? どうして私の気持ちをわかってくれないんだろうと恨むの? 伝え方が下手だったと、自分を責めるの? どっちもハズレでしょ。行動したいから行動したんでしょ? 伝わらなくたってしょうがない。その代わり、先様が迷惑だろうなと思ったら、帰ってくる潔ささえ持っていればいいんじゃないの? 結局、行動して自分の思うような答えが返ってこなかった時に、何で自分を安定させるか、なんです。俺は行動したいから自分のために行動したんだと思って、納得します。伝わらなくたって仕方がない。

─師匠はいつも、どんなことも、とことんまで突き詰めて考える。裏を返せば、自分で自分自身を徹底的に追い込みますよね。

追い込まないと進めないんだよ。だけど傲慢だよ。今回の写真撮影だって、表紙だ、特集だって言ってくれているのに、20分で撮ってくれって言うでしょ? そしたら追い込まれるでしょ? 追い込まれた時にスキルもわかれば、生き方の根っこも見えてくる。おそらくそれは、博打から来てるんだよ。ツイてない時に我慢することは、誰でもできる。粋がってるヤツならね。奥歯を噛みしめて、『俺はツイてないけど、決して熱くならない』とかね。不思議なんだよ、人間。ツイてる時は隠せない。喜びは隠せない。だから怒りはものを作っていく原動力になり得るけれど、他者には支持されないね。怒りで引っ張って来ようと思ってもダメだね。だから、笑いが必要になってくる。日本人の情緒からすると、本当は怒ってるんだけど、笑いをまぶしながら伝えていくのが落語っていうものなんだろうね。伝わらなかったからといっても決して恨まないし、諦めないし。伝わらなきゃ伝わらないで、しょうがないだろってだけの話。だから逆に言えば、伝わるヤツを大事にする。偶然、出会えたんだもん。奇跡に近いんだもん。大事にしないと。

─それにしても、自分で自分を追い込んでばかりいると、いつかダメになるんじゃないかと不安になりません?

追い込まないと何もやらない。追い込んでもたいしたものはできないけれど、何かはやるから結果が出る。どっちがいいですか? って話。私がナチュラルな状態で何かできればもっと凄いものを作れるかもしれないけど、ぐうたらで怠け者だから、追い込んでいくだけの話。こっちが正しいなんて、1ミリも思ってない。認めてほしいとも思ってない。他者に何か言われたからって、決して変わらない。

─そんなふうに自分で自分を追い込めるのはカッコいいというか、凄いことです。

そんな感想言ってないで、やりゃいいじゃん。カッコいいと思うなら。2~3カ月でやめるだろうけど。友達、みんないなくなるだろうからね。迷惑だもん。ひとりでギスギスしててさ。だから、みんな、24時間一緒にいたいとは思わないけど、時々観たいんだろうね。高座の上の俺とはつき合いたいけど、人間としては嫌だと思う観客はかなり多いみたいだよ。エキセントリックだし、圧が強いし。お金払って、2時間半くらいだったら、たまに観てもいいかなって思ってくれてるみたいだね。

~後編へ続く~


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